紙パルプ私史 36

 

おれ、心配で寝れんわ−上−

 

−大昭和製紙創業者齊藤知一郎の遺訓 

小柳道男

 

六角堂

富士市の比奈地区に、玉泉寺という歴史の古い寺がある。正しくは、瑞龍山玉泉寺という。宗派は曹洞宗で、開基は室町時代といわれる。この玉泉寺に、齊藤家の墓所がある。広い墓地の北側、一段高いところに一族を祭る六角堂の御霊屋があり、堂の周辺には齊藤家の墓石が並んでいる。それらの墓石のなかで、ひときわ大きな黒御影石の墓が二つ、そしてそのそばにやや小ぶりの墓が一つある。それぞれの黒く磨かれた墓の表と裏には、

瑞龍院殿誠信知恩大居士、俗名齊藤知一郎、七十三歳、昭和三十六年二月十六日没

瑞晶院殿誠室貞順法大姉、俗名齊藤わかよ、八十六歳、昭和五十六年二月二日没

平祥院正覚浄心大居士、俗名齊藤平三郎、三十一歳、昭和三十五年一月十六日没

という文字が刻まれている。

もはや説明するまでもない。泉下に眠る人は、大昭和製紙創業者齊藤知一郎氏(以下、敬称略)と、その妻わかよ、知一郎の五男に当たる平三郎、ということがわかる。それにしても墓石に使われている黒御影石は落ちついた光沢を放っていて、みごとである。この石は、どこからきたのか。

知一郎の墓の横手にまわってみて、それが判然とした。次のような字が刻まれていたからである。

昭和十四年三月、大昭和製紙は日本初のクラフトパルプ製造設備を完成した。設備一式はガデリウス社がスウェーデンから輸入した。この歴史的事蹟をなしとげた大昭和製紙初代社長齊藤知一郎翁の七回忌に当り、ガデリウス社はスウェーデン産黒御影石を寄贈した。この墓石がそれである。

なるほど、とうなずける。戦前の早い時点で、大昭和は遥かなる西のかなたスウェーデンとつながっていた。

知一郎と平三郎、そしてわかよの墓を建てたのは、知一郎の長男、齊藤家十代目に当たる了英である。なお了英は、平成八年三月三十日午後五時十二分、脳梗塞で死去している。

行年七十九歳。しかし、彼の墓石はまだ、この墓所内にはない。

齊藤家の御霊屋の前に立ち後ろをふり返ると、眼下に紙の街、富士市の広い街なみが見え、製紙工場の大煙突から吐きだされる白煙が大きくゆれていた。

 

工場熟知

大昭和製紙創業者齊藤知一郎の生まれ、育ち、辣腕ぶりについては、すでにいくつかの本に書かれているから、ここでは詳述しない。本シリーズでは改めて彼の人間性、ひらたくいえば人となりに光りを当てたい。その意味で知一郎を語ることができる人は、もう本当に少なくなった。若い人たちにとっては、もはや彼は歴史的な存在であろう。それはそれで、仕方がない。

私が知る限り、もっとも古くから知一郎の下で働いてきたという大昭和OBが一人いる。神尾久雄、大正四年三月三十日生まれ。知一郎の生家から、ごく近いところで生まれ育ったという人物である。

神尾は地元比奈の小学校高等科を出ると、昭和六年五月一日に齊藤商会へ入っている。神尾の父と知一郎の生家が同じ製茶業をやっていたという縁による。齊藤商会というのは、大正十年五月に知一郎が弟たちと製紙原料の仲買いをはじめた兄弟会社である。鈴川駅(現吉原駅)前に店をもち、最初の名は「齊藤商店」であったという。

やがて昭和に入って昭和製紙の実権を掌握した知一郎は、昭和十年十二月に齊藤商会を吸収合併する。そしてさらに三年後の十三年九月、昭和製紙は大正工業や岳陽製紙など四社と合同し、大昭和製紙へと発展していくのである。

神尾は、知一郎の原点とでもいうべき齊藤商会に入り、壮年時代の彼の生々しい息吹きを直接体感してるから、まさに古き大昭和を知る生き証人といえる。

しかし残念ながら、その神尾は平成十二年五月二十四日午前六時三十三分、すでに肺炎で死去している。八十五年の生涯であった。

彼はまだ健在だった頃、「毎朝七時ごろ、車が迎えにきて、知一郎社長と一緒に工場や本社へ行くのが日課だった。それが昭和二十七年から亡くなる昭和三十六年初めまで、ずっと続いた」という言葉を残している。

足かけ十年の間、そこにいかなる知一郎の決意、迷い、喜び、悲しみ、そして怒りがあったか。いまとなっては、神尾に質すことはできない。ちなみに神尾は戦後の昭和二十八年に取締役に選任され、その後専務まで累進している。

 

神尾よりも五歳年上ながら今も健在な大昭和OBに、名倉英雄という人がいる。

明治四十三年七月七日生まれ、桐生高工応用化学卒。彼は高知県商工奨励官だったとき、誘われ一転して昭和十四年七月に大昭和へ入っている。

昭和十四年といえば、前に少しふれたように知一郎が鈴川工場に初のクラフトパルプ設備(スウェーデン・カールスタット社製・日産二五トンを建設し、その運転に大車輪だったときである。最初からトントン拍子だったわけではあるまい。腕のいい技術者はノドから手が出るほどほしい。名倉はいわば、知一郎のヘッドハンティング第一号だったのであろう。

名倉(のち取締役)は現在九十一歳だが、記憶力がしっかりしていて、足、腰も丈夫、語り口も明せきで、とても九十歳の坂を越えた高齢者にはみえない。

かくしゃくたるものがある。

昭和十四年に入社したその名倉は知一郎宅隣の社宅に住み、しょっちゅう社長宅に出入りすることになる。彼は今もしっかりした語り口で、「孝さん(知一郎四男)や平三郎さん(同五男)の勉強の相手を、よくしたものですよ」と回顧している。

得難い挿話の一つであろう。この話は、名倉が知一郎家のほぼ身内同然の人であったことを裏書きしている。

本人に確認はしていないが、会って直接胸をたたけば後年、大昭和の社長、会長を務めることになった孝は、「名倉さんには、今でも頭が上がらない」などというかもしれない(冒頭で書いたように、五男の平三郎はその後若死している)。名倉が身内同然になってから、すでに六十年が経つ。まさに往時茫々たる感がする。

 

戦後の入社ながら、やはり古手技術者の一人に山村正昭(のち副社長)がいる。山村は昭和二年九月二十二日清水で生まれ、旧制浜松高工(化学工業科)卒、大昭和入社は昭和二十三年の三月である。彼の入社は、野球の縁による。

彼は小さいときから野球少年で育ち、浜松高工時代野球部のキャプテンだった。

それを知った知一郎長男、取締役総務部長の了英(その頃はまだ美英という名であった)は、「おう、野球やるんなら、うちへ入れ、入れ」と文句なく一発入社だったのである。

了英は沼津中学時代陸上部の選手だったから、陸上競技と野球には目がなかった。大昭和に硬式野球部ができたのは、戦後すぐの昭和二十二年。陸上部が発足したのは、その翌二十三年である。山村の入社は、入るべくして入った、といえるのかもしれない。

山村が入った頃、知一郎の口ぐせのように言っていた言葉を彼はよく覚えている。「紙抄きはな、経験だよ。学はあまりいらん」

だからそれまでの大昭和には、旧制高専の者が五、六名いた程度で、大学卒はほぼいなかった。山村もすぐさま鈴川工場のマシンに張り付くことになる。

大昭和が大学卒を採りだすのは、了英の専務就任後、すなわち昭和二十五年あたりからのことである。大卒の積極採用は、鈴川の増設につづき、富士工場の新設、操業開始(二十六年十一月、一号マシン稼動)など、業容拡大に対処するためだったとみられる。

大昭和が東芝富士工場から約四万坪の土地を買い、ここにSP設備一式とマシン二台の構想で建設にとりかかったのは、昭和二十六年の九月からであった。山村も鈴川から、富士の建設、操業要員として第一陣に加わっている。

建設は突貫工事だった。知一郎は朝五時に起き、朝飯もそこそこに現場へ足を運んだ。そして暗くなるまでそこにいて、彼は指図して歩いた。「知一郎の頭のなかには、絶えず新工場の建設図が浮かんでいた」と、『齊藤知一郎伝』のなかで筆者北川桃雄は描いている。

山村も、「知一郎社長は本当に現場に張り付いた人」と回顧している。

山村が入社したての頃の話である。

鈴川の二台マシンの内、止まっていた一号機を動かすことになり、準備作業に入った。少し震動すると、一号機の周りのコンクリート壁が剥がれてボロボロ落ちてくる。そのマシンは戦時中、軍需用コンデンサー紙を造るためよそから移設したもので、代用コンクリートだったから強度が弱かったのである。山村たちが壁を剥がしていると、そこへ知一郎が見回りにきた。

「それな、そこへ鉄筋を入れて壁を造りなおせや。あの倉庫のすみに、購入パルプを束ねていた針金がまとめて置いてあるから、あれを使えや」

と瞬時に知一郎の指示がとんだ。彼の頭のなかには、どこにどんな材料がどの位あるか、ぜんぶ入っているのだった。

この挿話には、建設には金は惜しまないが、無駄金はいっさい使わない。そういった知一郎の心根が象徴されているような気もする。

 

呼び出し

あれは何時のことだったか。富士の操業が順調に動きだしたからのことであろう。山村は、職長になっていた。

ある夜遅く、知一郎が富士工場へきた。彼は東京へ行くときも、朝早く出かけ、夜遅く帰ってくる。駅からはまっすぐ帰宅せず、かならずどこかの工場を回ってから帰るのが常だった。その夜も深夜だから、製造部長も工場長も代理も、だれもいない。

知一郎は山村のところにもきて、マシンの表と裏、こまかく見て帰っていった。

これで一件落着と思っていると、しばらくして守衛が呼びにきた。「社長から電話が入っている」という。

とんで電話に出ると、

「いや実はな、さっき君のところ回ったけれど、おれ心配で寝れんわ」

山村は頭のなかが真っ白になった。

「マシンの裏にたまっている潤滑油の油な、あれに万が一、火がついたらどうする。おれが鈴川の消防班に頼んでやるから、あそこの車を使って油をなんとかしてくれんか」

当時のマシンはまだベルト駆動だった。至るところでプーリーが回っている。昔の製紙工場は、火災を起こしやすかった。その典型として昔、大川平三郎が率いる樺太工業の泊居工場(大正十年二月)、同眞岡工場(同年五月)の二つの大工場が火災により一夜で烏有に帰した例など、いくつもある。

昔の製紙工場は火災に弱かった。ときは移り時代は変わったが、基本的な脆弱点は変わっていない。それなのにマシンのそばに油がたまっているとは

−だから知一郎は、それが心配で床に入るどころではない、と言ったのだった。

工場にきて機械の隅にたまっている油を見たとき、かみなり雷を落としてもよかったと思うが、知一郎はそうはしていない。

なぜか。

下手な解釈は無意味であろう。

山村は入社後、ずっと現場を歩きつづけ、取締役、常務、専務、副社長にまでなった。しかし今も、「電話で<おまえは、なぜあれが気にならないんだ>と多少皮肉まじりに諭されたことが忘れられませんね」と回顧している。

怒鳴られるよりも、それが一番こたえたのだった。

 

もう一人、登場してもらおう。外山研次。やはり現場を歩き、工務技術担当の副社長まで務めあげた人である。

外山は富士の出身で、本人にいわせると駿河湾ぞいの一寒村に生まれた、ということになる。

日大工学部工業化学科卒。大正十四年二月二十八日生まれだから前に述べた山村より二歳半ほど年上に当たるが、大昭和入社は昭和三十年九月である。

これは大学卒業後、近くの富士製紙工業の原田工場で三年間、働いたためである。

外山が大昭和に入るきっかけは何か。

確かめたわけではないが、知一郎三男喜久蔵との縁があるのかもしれない。喜久蔵は外山と同じ日大工業化学科出で同門、外山の先輩に当たるからである。

喜久蔵は大正十二年十一月生まれで、外山より二歳年上になる。若手技術者の先頭に立っていた喜久蔵が、同じ大学で同じ道を歩んだ外山を引っぱったのかもしれない。

入社後、鈴川工場に配属となりマシン係となる。工場長は喜久蔵である。

その頃の鈴川はマシン六台、昭和十四年に建設されたクラフトパルプ一式は戦後に増設され、大昭和の主力工場として活気を呈していた。この頃から大昭和は、新聞用紙の製造に古紙を入れはじめている。

 

昭和三十四年のある日、鈴川工場製紙課管理係長だった外山は、「社長が君を呼んでいる。すぐ部屋へ行ってくれ」といわれて驚いた。寝耳に水だったからである。

外山は当時三十四歳。係長になったとはいえ入社後四年、まだまだ一兵卒の身でしかない。

むろん、毎日のようにみえる知一郎の姿はよく見知ってはいたが、直接話し合ったこと一度もない。

事務所に向かって急ぎながら、〈社長の話一体なんだろう?〉、外山の頭のなかはくるくると舞った。

そして緊張しながら、社長室の扉をたたいた。

−敬称略・つづく

(元ダイヤモンド・プレジデント誌編集長)

 

資料

『齊藤知一郎伝』北川桃雄著(大昭和製紙刊)、『東海の暴れん坊、世界を行く』齊藤資料編集室刊・齊藤公紀、齊藤斗志二、齊藤知三郎、齊藤四方司』ほか。

 

掲載誌 「百万塔」第109号 財団法人 紙の博物館

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