紙パルプ私史37

おれ、心配で寝れんわ()

――大昭和製紙創業者 齊藤知一郎の遺訓

小柳 道男

 

乗るかそるか

前号で書いたように入社四年目、製紙課管理係長になったばかりの外山研次は、このとき三十四歳。急に呼ばれて齊藤知一郎社長室へ入るのは、外山にとって初体験である。社長は何の用でオレを呼んだのだろう?どうき胸の動悸がやまない。扉を開けた途端、外山はまたびっくりした。すでに齊藤社長の前に、四〜五人の社員が並んでいる。しまった、自分がいちばん遅かった。

そう考える間もなく、これで顔がそろったらしく、社長の知一郎が口火を切った。「君たちに北海道へ行ってもらいたい。建設組ではない。君たちは建設後、工場を動かす要員だ。今度の白老建設は、大昭和にとって今までにないひじょうに大きな仕事だ。乗るかそるかの大仕事を、君たちにやってもらいたい。そのつもりで心の準備をしてくれ」

「……」

「君たち一生懸命やって、なんとか白老をモノにしてくれんか。もし白老の運転がまずいとなると、大昭和本体がおかしくなってしまう。白老と、本体は本当に一蓮托生なんだよ」

そう言って知一郎は、ひとりひとりの顔をじつと見つめた。外山にとって知一郎からの直話は、青天の霹靂みたいなものだった。二重、三重の驚きであったが、よし、やってやろうという熱い気持ちと、自分にそれだけの重さを背負えるだろうか、という思いがないまぜになった。

知一郎の前に立っている社員は、古参の名倉英雄(桐生高工卒、昭和十四年入社)ひとり除けば、みんな若い技術者ばかりである。緊張のせいか、あるいは初めて重責を聞いたためか、みな顔の表情が固い。

後年、名倉は当時を振り返って、「知一郎社長主宰の御前会議で、“白老は名倉君、あんたしかいない。工場長代理格でやってくれ”といわれ、最前線の隊長を務めることになった」と述懐している。その名倉の指名も突然で、いわれたとき「どうして、おれが?」と不思議に思ったという。

電光石火、こうと決めたら、知一郎の指示は一瞬のうちに飛んでくる。

外山は社長室にいる間じゅう、緊張のしっ放しであった。

 

福山挫折

記録をみると、知一郎が北海道の白老町萩野というところに新工場建設を最終的に決意したのは昭和三十四年六月二日、とある。

その三日後の六月五日朝、知一郎はみずから白老の現場へ飛び、副社長斉藤了英(知一郎長男、当時はまだ美英といった)、技術部長同喜久蔵(三男)ら幹部が見守るなかで地鎭祭鍬入れの儀式を行なっている。

ときに知一郎七十一歳。これからがいよいよ大勝負だと、おそらく大いに高揚した気分であったに違いない。白老工場の概要は、およそ次のようなものであった。敷地約二〇〇ヘクタール、新聞用紙日産二五〇トン、段ボール原紙一五〇トン、パルプ設備はGP日産九〇トン、CGP一九〇トン、KP二〇〇トン、従業員数六〇〇人、建設費七四億円、原木手当はN材三割、L材七割を目指すという計画である。

この白老建設の前に、実はもう一つ経緯がある。

知一郎は昭和三十年頃から新工場建設を企図し、幹部達に有力候補地を物色させていた。その作業が進捗し、土地は福山市と決定した。昭和三十三年夏頃の話である。同地方は赤松が豊富で、知一郎たちが企図した新工場は、KP連続蒸解釜日産一五〇トン、クラフト包装用紙マシン一台日産=二〇トン、建設費約三十億円というものだった。

この建設計画は福山市から歓迎され、着工寸前にまでいったが、周辺の漁業組合から「大量の水を使われると、ノリが大打撃になる」と一転して猛反対される事態どなる、肝じんの水が制限されるようでは、紙工場はなり立たない。

紆余曲折の末、結局、この計画は断念せざるをえなくなる。

思わざる挫折であった。

しかし、こういう経過を経てからの白老建設であるから、知一郎や了英たち親子の新天地へかける意気込みは一段と熱っぽいものがあったと思われる。知一郎親子は、一筋に大昭和の運命を白老進出に賭けたのだった。

 

昭和三十五年五月二十四日夜、七人の大昭和マンが上野駅常磐線ホームに集まった。ボスが名倉で事務部長格が一人、それにパルプ屋が一人、外山たちマシン屋が三人、建設係が一人、計七人である。名倉と事務部長を除けば、そろってみな若い。

夜行の寝台列車で北上。平、仙台は夢うつつである。翌朝、青森着。連絡船が待っていて、すぐに乗船。やがてドラが鳴り、蛍の光の曲が流れる。タグボートが勢いよく押し、連絡船の巨体がゆっくりと動く。

その頃の青函連絡には、たっぷりと旅愁がつまつていた。青森湾を出て津軽海峡にさしかかると、六、五頭の海豚が後になり先になり、船と併走し波を切っている。何もかも珍しい。

船の右舷に下北半島の山影が見える。これでしばらく本州とはお別れだ、外山の胸にそれなりの感傷がただよう。四時間余の航海で函館着。ただちに函館・室蘭本線経由の急行列車に乗りつぐ。そして列車が白老に着いたとき、もう二十五日の夜の帳がすっかり下りていた。東京から白老まで、その頃はまる一昼夜もかかったのだった。

こうして外山の白老生活がはじまる。

 

面白いというと語弊があるが、興味をひかれるのは外山がそれから平成二年に至るまで、ずっと白老に居続けたという事実であろう。彼は白老の製紙課長から始まり、製紙部長、工場長代理、工場長、取締役、常務、そして副社長技術担当となるまで二十七年間、一号マシンから一〇号マシンに至る建設、運転その他の一切を見とどけている。

途中で三男喜久蔵が心血を注いで建設した岩沼工場のマシンを手伝ったり、富士工場担当を兼ねてもいるが、二十七年にも及ぶ間、白老一筋だったという例は珍しい。同士七人で津軽海峡を渡った技術屋第一陣は、いつの間にか転勤でつぎつぎと姿を消し、五年後には外山ひとりになっていた。

外山は、白老の主となった一人である。

冗談まじりに、「浦島太郎だったのですよ」と小さく笑いながら、彼はいま回顧している。

 

末っ子の死

白老の一号機が回りだしたのは、昭和三十五年の十二月末である。突貫工事であった。

建設中、知一郎は何回も見回りにきた。進捗状況が気になって仕方がなかったからである。また本社へ戻ってからも、何かトラブるとすぐ名倉のところへ電話がきた。

「おい、あれ、どうなった?」こまかな変化まで、知一郎はよくつかんでいた。

ζ」寝ても覚めても、現場のことが頭から消えなかったのであろう。

しかし、世の中一寸先のことはわからない。あれだけ白老の行く末に熱心だった知一郎も、一号機の本操業を目のあたりにすることはできなかった。

彼が白老の現場を最後に訪れたのは、試験操業寸前の頃で、もう持病の心臓疾患があまり良くなかったのであろう。

名倉に、「おまえ、くれぐれも頼んだぞ」と言い残して、知一郎はあわただしく帰っていった。

昭和三十五年十二月十五日のことであった。年が明けた一月下旬、風邪で寝込んでいた知一郎は肺炎を併発し、二月十六日午前二時十分、ついに幽明境を異にする。七十三年の働きづめの一生だった。

年齢のわりに早い死といえるが、精一杯目をくばり、かつ縦横に走り回って大昭和の礎を築いた本人としては、悔いのない人生だったといえよう。ただ一つ、心残りというか、悔やんでも悔やみきれないものがあったとすれば、それは五男平三郎の急死であろう。

平三郎は昭和三年九月六日生まれ、旧制成城高校、米国メイン州立メイン大学院製紙学部卒で、知一郎の末っ子である。末っ子だからよけい可愛かったのであろうが、平三郎は確かに魅力ある青年技術者だった。

彼は昭和三十二年、まだメイン大学院生だったときタイム・ライフ誌のコート紙抄造工程を視察し、「日本の週刊誌の紙も近い将来、かならずこうなる」と考え、知一郎に薄い紙への高速多色刷りコーティングマシン導入を提案している。卓見であった。知一郎は、そのセンスを殊のほか愛し、末っ子という以上に技術者としての彼の前途を大いに嘱望していたのである。

ところが昭和三十五年一月十六日夜、その平三郎が富士工場からの帰り途、激しい風雨のなか自動車事故に遭い急死してしまう。行年わずか三十一歳、伸び盛りの若い彼の死は、親族にとっても、また大昭和という企業にとっても大打撃であったに違いない。

平三郎が推進した高品質の中質コート紙は「ヘンリーコート」という名で三十五年十一月頃から量産され、出版社から軒なみ高い評価をとる。大昭和の中質コートが革命的に名をあげたのは、明らかに早世した平三郎の先見性によるものといえる。

ちなみにヘンリーという商品名は、アメリカ留学中に付いた彼のニックネームからきている。このネーミングに、彼の死を悼む気持ちが痛いほど込められているような気がする。愛しい子を失った親の痛切な思いは、その親でなければ真実わかるまい。知一郎、わかよ夫妻への打撃が、どんなものであったか。知一郎の死が平三郎不慮の事故のわずか一年一カ月後であったことを思うと、末っ子の思わざる早世が知一郎の心に測りしれない重圧を与え、その死を早めたといえなくもない。

 

昭和三十六年三月一日、長男了英が知一郎の後を継ぎ、正式に大昭和の社長に就任する。ときに了英、満四十四歳。まさに男盛りでの登板であった。

了英は大正五年四月十七日、官士郡吉永村(現富士市)比奈の生まれ。旧制沼津中学、早大専門部商科を経て、日大法学部を出ている。大昭和入社は昭和十六年春(販売部第一係)である。

了英は兵役も経験がある。

昭和十七年夏から四ヵ月の教育召集を受けたあと、昭和二十年春に再召集され、このときはただちに北支派遣(第一六五野戦飛行場設営隊)、済南飛行場の設営に従事している。

まもなく朝鮮半島の大田飛行場建設に転じ、そこで敗戦。階級は一等兵であった。

直後の混乱のなかを南下、釜山から敦賀に上陸、了英がようやく比奈の家に戻れたのは、もう秋風が吹く十一月初めになっていた。

 

細心周到

いま了英の大昭和入社は昭和十六年と書いたが、知一郎は上京するとき、学生服を着た彼を帯同するのが恒例だった。

了英はたしか七十歳前後の頃、一小話を私に語っことがある。

昭和八、九年、ぼくがまだ沼津中学生だった頃、親父に連れられて鈴川駅から朝五時の東京行一番列車に乗った。すると、たしか茅ヶ崎辺りだったと思うのだが、晶の良いお年寄りが奥さんと一緒に乗ってきた。

目ざとく親父がそれを見つけてぼくを引っぱって行き、挨拶をした。

その品の良いご夫婦は藤原(銀次郎)さんと奥さんだった。

親父は楽しそうに話をし、藤原さんも笑みを浮かべながら、フム、フムと聞いている。

そんな光景を見て、ぼくは中学生ながら、いいなあと思ったことを今でも覚えている。

話に花が咲いているうちに、藤原さんご夫婦は藤沢あたりで降りていかれた。

ぼくが藤原さんに親しくお目にかかったのは、このときが初めてだった。

親父は東京へ行くとき、かならずぼくを一緒に引っぱって行った。何度かそれをくり返している間にわかったのだが、朝のその列車に乗ると、かならずといっていいほど藤原さんご夫婦が乗ってこられる。

むろん三等車で、その片隅、車内を一目で見渡せる一番後ろの席にすわる。いつも、そこが定席だった。

藤原さんの着古した背広に、地下足袋、巻き脚絆といったごく質素な恰好。足を鍛えるため朝の散歩をされ、すんでから列車に乗ってこられる。おそらく、毎朝の日課だったのだろう。

乗ってこられてから降りるまで、その列車の三十分足らずを、ぼくの親父はたいへん楽しみにしていた。

 

――藤原夫妻、齊藤親子、いずれも三等車での情景というところがおもしろい。

知一郎は了英を連れ東京へ出ると、まず神田駅近くの昔の中井商店(現日本紙パルプ商事)そばの「越重」で朝食をとり、そこでしばし休憩した。

やがて三信ビルの王子本社へ行き、ときのお偉方と話をするというのが通例だった。

了英は、「ぼくは学生服の頃から、藤原さんを始め高嶋菊次郎さん、足立正さん、田村文吉さんなど、業界の重鎮がたと身近に接してこれたのは、たいへん幸せだったと思う」と回顧している。

この発言は一種の社交辞令にすぎるのかもしれぬが、面識があるのとないのとでは、人の世の付き合いに大差が生じる。親父の供、鞄持ち、あるいは代理出席、その何れにしても他の重鎮と談笑できる機会を持ったことは了英にとってプラスであったろう。

学生服の頃から連れ回したということは、知一郎の“やがて後を継ぐ長男”了英への帝王学であったに違いない。

 

事業者了英のその後の変せんについて、ここではるるしない。

了英の後半における事績は、意表をつく、かつ世を騒がせる派手な行動であったため、数多くのマスコミから取りあげられ指弾を浴びた。紙上に流れた量はぼう大なものであり、了英の事業者としての評価は、もはや定まった感がある。

それはそれとして認めなければならない。一言でいえば、了英は光りと影、それも強く大きな光りと影を描いた人だったといえる。

先に影をいえば、メインバンク住友との絶縁、兄弟げんか(知一郎三男喜久蔵解任)、性急だった名画収集、宮城県知事贈賄事件などであろう。

いっぽう光りをあげれば、外材チップ開発システム造り(業界に先がけ、専用船によるピストン輸入を実現)、大昭和パルプ岩沼の建設、数多くの海外工場建設(カナダ三工場、豪州チップエ場)などがある。

先走っていえば、知一郎亡き後の会社の基盤を一回りも二回りも大きくし、静岡の大昭和から日本の大昭和、さらにはグローバルな大昭和にまでレベルを上げたのも、また了英その人だったのである。この事実は見落としてはならない。

 

先にあげた名倉は、いましみじみ、こう語っている。「先代(知一郎)は得心しなければ、絶対着手しなかった。私は今でも、その点が偉かったと敬服している」また外山は、「昔、鈴川工場で勤務していたとき、夜、とつぜん社長(知一郎)から電話がかかってきた。“昨年のこの日、鈴川でこういう事故があった。今夜はどうか。気をつけて運転してくれ”といわれ、びつくりした」とも回顧している。

知一郎は辣腕家ともいわれ、つねに現場に張りついた人であるが、どうやら細心、目くばり、確認慎重が持ち味だったようでもある。なかなかできぬことである。

さらに外山は、「白老建設のさなか、社長はひとわたり工場を歩くと、あとは独身寮でみんなとかならず食事をする。最初のうちは人数が少ないから、おひつから飯茶碗にご飯を直接盛って食べた。

しかし人数がふえてから、それが丼飯になった。すると社長は、あれではまずかろう。賄いに言って、元へ戻したらどうだといわれたから、またびっくりした」と付け加えている。食欲旺盛な若い人に対する配慮であろう。

名倉は、「先代は人使いがうまかった。」という。

叱るときは、烈火のごとく怒鳴りつけない。

前号で書いた山村正昭も、「諭すように注意されたから、ぼくらは余計こたえた」と知一郎を偲んでいる。

長男了英、三男喜久蔵も知一郎の側にいて仕事ぶりを長い間目にしてきたから、その辺の機微は充分受けついだことであろう。ただし、親と子では生まれ育った時代が大いに違う。懐の広さ、心情にやや違いがみられるのはやむを得ないのかもしれない。

 

二代目了英のもっとも輝いた時代は、日本の高度成長期に即している。

彼にとって幸せな時期だったといえる。

しかし、昭和六十年頃を境として社会が多様化成熟し、時代が変化しはじめると、それまでの膨張政策が今度は逆に足かせとなってくる。いつの時代でも変化を敏感に予知し、いや予知しえなくても、アンテナだけは感度のよいものにしておくことが必要であろう。

結果論であろうが、了英の周辺に金融を熟知した大番頭の存在が薄かったことが惜しまれる。

人間は複雑な生きものである。程度の差こそあれ、だれにも長所があり、短所がある。影ばかり見ていては、社会は進歩しない。

といって光りばかり見るのでは、堤燈屋になってしまう。

光りと影、そこを正しく見て、そこから何がしかの教えをつかみ取るのが、私たち後代に働くものの務めであろう。

 

大昭和はいま日本製紙と統合し、新しい道を切り拓くべく走っている。

そこから何が生まれてくるか。話はとぶが、大昭和の生粋OB社員が集まる「寿会」というのがある。年一回開催。

初代会長は名倉英雄であったが、二代目現会長は外山研次である。今年も五月に富士市内のホテルで大会が開かれ、約二八○人が参集した。

亡き了英が愛唱した「月の砂漠」が歌われ、最後に野球部応援歌「おお大昭和」(詞・サトウハチロー、曲・古関裕而)が斉唱されて大いに盛り上がる。

外山は現在七十六歳。

入社以来、四十六年余。半世紀に近い。

外山には、各工場の建設、施設、運転にその一生を投じたという強い誇りがある。一つ一つに彼の思い出がつまっている。

彼は大昭和の将来に望みを持っている。

「来年の寿会の最後にも、みんなと一緒に大声で応援歌を歌いますよ」

外山の目がキラッと光っていた。

敬称略・完

(元ダイヤモンド・プレジデント誌編集長)

 

資料

『齊藤知一郎伝一北川桃雄著(大昭和製紙刊)、「東海の暴れん坊、世界を行く』(齊藤資料編集室刊・齊藤公紀、齊藤斗志二、齊藤知三郎、齊藤四方司)、『藤原銀次郎の軌跡』(紙の博物館刊)ほか。

掲載誌 百万塔 第110号 財団法人 紙の博物館

 

以上

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