齊藤知一郎と大昭和製紙会社

 

いまや世界の製紙界において、名実ともにトップクラスに躍り上った大昭和製紙会社の創設者は、一介の百姓の忰知一郎であった。彼が今日の大昭和を築き上げた識見と度胸と、そして頭脳は万人にすぐれていたと、郷土の人々はひとしく認め称えている。

彼が製紙界に尽した功績や、教育並びに社会福祉事業に貢献した数々の足跡は、人々から永く評価されるであろう。えて、郷土の人と言うのは、その人のオギャーと生まれた時から、死ぬまでの一切を知りつくしているので、たとえその人が立派な優れた人物になっても、あるいは社会に貢献したとしてもそのまま素直に評価することなく、むしろ批判したり、さげすむ傾向が見られるものである。

戦国時代に今川氏の軍師として活躍した太原雪斉が、京都の建仁寺で修行中のことであったが、今川氏親から子の義元の師になってほしいと再三使いをよこした。しかし、雪斉禅師は「中国の馬祖道一禅師のいわゆる卿に帰るなきを以て旨とした。」と、東谷和尚が雪斉三十三回の香語の中で言っているので、そうしたことは昔も今も変わらない人情の常である。

いま、世界を舞台に活躍している大昭和製紙会社も、実は六十年前には芽生えさえもなく、知一郎は製茶の仲買いや機械茶の賃もみなどを細々とやっていた程度の平凡な百姓出の小事業家でもあり、小商人でもあった。それは彼が二十六、七歳のころであったが、それから五年後の大正九年(一九二〇)彼が三十二歳の八月、その工場が失火で焼失したのを機会に、再建した工場は弟の政良(二十一歳)に経営を譲って、自分は製紙材料の仲買いに転業した。

大正十二年(一九二三)九月一日の大震災の翌二日、兵役から除隊して商売の手助けをしていた弟の貞作に、鰹節二メ目を持たせて徒歩で箱根越しに東京へやった。朝鮮人騒ぎのニュースで弟の身を心配したが、無事に帰ってきた貞作から東京の様子を聞いた知一郎は、九月十日救援物資として、買い集めた製品の半紙、ちり紙一五トンを貨車一輌に積みこんで、鈴川駅から下り列車で発送、名古屋経由、中央線大宮駅へ、自分も荷物と同行して東京へ行った。聞きしにまさる惨状を目の辺りにしながら、日本橋小舟町の増田商店へ行って、手の切れそうな一万円の札束を受けとった。そしてトンボ返りして二、三回繰り返して、前に再生紙「田子浦」での損失を埋めて、なお儲けがあった。

翌大正十三年六月富士製紙第八工場(現本州製紙富士工場)の火災で、焼けたパルプを一手に買った。それが焼けたのは表面ばかりで、中味は無事だった。人々は運が良かったといっているが、おそらく彼はそのことを見抜いた上で買ったものであろう。知一郎が製紙界に入ったのはこの時の儲け四、五万円によるものだという。

その年、彼は鈴川駅前へ斉藤兄弟商会という店を出して、原料の仲買いを手広くやった。大正十四年(一九二五)知一郎は事業不振のため閉鎖していた駿府製紙梶iこの会社は大正五年今泉に資本金三十万円で創建)を、友人数名と共同して引受け、丸共製紙と称して和紙を抄造した。しかし、業績が上がらなかったので話し合いの末、全株式を知一郎が引き受け、やはり丸共製紙として稼動した。これが知一郎の機械抄製紙へ進出の第一歩であった。

大正一五年(一九二六)知一郎は斉藤徳次、久保田春吉らとともに寿製紙を買収して機械を改造して、翌昭和二年三月「昭和製紙株式会社」として、新たに吉永製紙会社の清水嘉作、同

工場長の石川周治、大正工業の佐野貞作を加えて、資本金十万円で出発した。

この会社も結局経営不振ということで、翌三年七月には知一郎が全株式を入手して社長となり、斉藤や久保田らは手を引いた。この会社が今の吉永工場で、この会社をのちに第一工場と

し、今泉の丸共製紙が第二工場となった。昭和八年(一九三三)元吉原村今井(今の鈴川工場)に工場を建設する計画をたてた。このことについて「鈴川の歴史」から抜粋して次に記しておく。

「工場の拡張に意欲をもやした知一郎は、第三工場の敷地をあれこれ物色した。昭和七年彼は東京郊外の浮間ヶ原に二千五百坪の土地を坪当たり金五円で買収した。そしてその隣接地五、六千坪を買い足ししようと思って交渉に入ってみると、今度は五割増しでなければ売らないということだったので、其処への進出は断念せざるを得なかった。そんなとき叔父に当たる鈴川の堀内新作から、元吉原村鈴川の東海道線の線路と沼川との間の耕地が、駅に近くて便利だからと勧められた。そこで辺りの地形を詳しく調べて見ると、鈴川駅に近いので引込線は簡単に敷設できそうだし、国道に沿っているので交通面でも申分がない。また、工場排水を流すにも沼川に沿っているという好条件の土地であったので、彼はそこを第三工場の設置場所と決めた。そこが今の鈴川工場である。

工場を設置するとなれば、どのような工場であっても資本金が第一条件であることに間違いないが、次には敷地の買収である。鈴川工場の土地買収の衝に当たったのは堀内新作、小川善太郎、渡辺仙作ら三人であった。買収予定地は凡そ一万五千坪だったが、一応買収ができたのは約九千坪であった。そして土地の関係者は四人であったが、先祖伝来の土地を手放すのだから、交渉が難行するのは当然のことで、中に宅地もあったので尚さらのことであった。しかし、理解者が多く買収は順調で、価格は田畑は平均して反当たり金六百五十円、宅地は坪当たり金十五円だった。土地関係者は鈴木邦彦、川島重雄、鈴木世親の三氏と大蔵省(河川敷)であった。

そこは低地であったので埋め立てが必要であったので、今の砂山の氏子会館付近の砂を買収して埋め立てに使った。請負ったのは岩崎組で、人夫賃はリヤカー自分持ちで一日九十五銭であった。製紙には大量の水が必要である。鈴川の工場予定地は沼川の沖積地だから、清水をうる見込みは薄いと考えた。そこで彼は、依田橋地区付近の田地を買収して深井戸のさく泉を計画した。ところがその付近には以前から数工場の製紙会社があった。そのため猛烈な反対をうけてその計画は実行できなかった。沼川の南側では見込みがないと思い悩んでいたとき、駅前の大石政雄氏がたまたま一本松の井戸松に頼んで、屋敷の中に自家の染物工場用の深井戸を掘ったところ、深さ六十間で清水が吹き出した。それに力をえて工場内にさく泉したということである。

水の問題が解決すると、埋立地に木造の工場を建築して、第一号抄紙機(長網フォードリニア式一〇〇インチ)を据え付け、昭和八年十二月から抄造を開始した。そのときの従業員は職員を含めて七十二名で、工場名を昭和製紙第三工場とした。」昭和十三年(一九三八)九月二十三日次の五社、即ち昭和製紙(社長斉藤知一郎資本金二百四十万円)、昭和産業株(社長斉藤知一郎資本金五十万円)、駿府製紙株(社長斉藤知一郎資本金十万円)、大正工業株(社長佐野貞作資本金百五十万円)、岳陽製紙株(社長斉藤信吉資本金百万円)は合同して、大昭和製紙株式会社、(資本金五百五十万円)を創立した。そしてそれらの工場はそれぞれ名称を次のように改めた。

昭和製紙株式会社第一工場は、大昭和製紙株式会社吉永工場に

〃第二工場は、大昭和製紙株式会社今泉工場に

〃第三工場は、〃鈴川工場に

大正工業株式会社第一工場は、〃大宮工場に

〃第二工場は、〃富士工場に

岳陽製紙株式会社は、〃岩松工場に

本社は富士町(現富士市)本市場におき、創立当時の役員は次のようであった。

取締役会長 斉藤知一郎 

〃社長 佐野貞作    

専務取締役 斉藤信吉  

常務取締役 斉藤貞作  

常勤取締役 渡辺美雄

〃  山田金吾

〃  村井操

取締役 岡野善太郎

〃   井上源之丞

〃  藤田好三郎

〃   尾崎鉄太郎

監査役 下郷伝平

 〃   斉藤佐一

こうして大昭和製紙は将来の大発展へ向って着々とその基礎が築かれていったものの、それにはいくつかの難関が待っていた。たとえば株式の下落から倒産に追い込まれたこともあったし、従業員のストライキで苦悩したこともあった。また業務上横領の疑いで取調べを受けたことも(無罪)、あるいは大患を病んで危ないと噂されたりしたことなど、決して平坦な道ではなかった。それにも拘らず、それらの数々の苦難を、不屈の意思と稀にみる大胆さで見事に乗り切った知一郎であった。また、彼が経済界の動きに、非凡な慧眼をもっていたということは、たとえば経済界の不況で他の製紙会社が、緊縮政策をとって設備投資を控えているとき、知一郎は借金しても積極的に、工場の拡張をやったり、設備の拡充を図った。このことについて明治製紙の田村由作社長があるとき筆者に「知一郎社長から業界が不景気な時ほど設備を拡充しろと聞かされた。」と話していたことによっても、知一郎の人となりが窺える。

やがて終戦になると、鈴川工場を中心に自社の諸工場の復興に努力を払った。そして脱税事件で告発されたりして、精神的に大きな打撃を受けにも拘らず、会社の増設や改造を次々と実施して、昭和二十年代には見事に見違えるような大昭和製紙に復興させた。

その頃、吉原市本町一丁目の南側に隣接して市民の医療活動に大きく貢献していた吉原病院が、経営難に陥っていた。この病院は昭和二十年(一九四五)の末に静岡県農業会と吉原町が共同で、農民福祉のために建てた病院であったが、同二十三年の初めに財団法人恵愛会の経営になった。その理由はもちろん経済的な問題であった。経営者は代っても病院の経営は一向に好転することなく、閉鎖という事態にまで追い込まれたので、知一郎は見兼ねて、会社福祉のために利潤を無視して、吉原病院の経営を引き受けた。

その年、つまり昭和二十三年四月、日本はまだ戦後復興の混乱期で、大昭和製紙でももちろんその復旧が緒についたばかりの時であった。そんな四月十日、貞明皇后が鈴川工場に行啓遊ばされて、知一郎はじめ従業員一同その光栄に浴したのであった。その感激のさめやらぬ昭和三十二年(一九五七)十月二十九日、こんどは天皇皇后両陛下(昭和天皇)を鈴川工場にお迎えする機会が訪れた。それはその年第十二回秋季国民体育大会が静岡県で開催されることになり、その開会式に行幸遊ばされた両陛下が、産業奨励の意味で鈴川工場を御視察になられるというものであった。昭和三十二年といっても終戦後十二年しか経っていない。鈴川工場の戦後の復旧はまだ不十分であったので、知一郎の気の配り方は一通りではなかった。彼は陣頭に立って両陛下をお迎えする準備に没頭した。知一郎にとっては一生一代の光栄であり感激でもあった。ただそれは大昭和製紙会社だけの栄誉ではなく、富士地区製紙業界の光栄でもあり、業界振興の好機会でもあった。

昭和二十七年(一九五二)五月五日、その日は知一郎が全額寄附して建てた昭和幼稚園舎竣工落成式があった。午前九時吉永村への譲渡式のあと、開園式そして入園式がおこなわれて、吉永地区に幼稚園が開設された。昭和十八年(一九四三)知一郎は頼まれて、今井地区にあった田子浦工業学校の経営を引きうけた。当時は乙種だったが翌十九年四年制甲種となり、戦後の二十一年には機械科を設け、二十二年には中学校を併設し、二十三年には高等学校に昇格させた。財政的には赤字だったので毎月十万円ずつ補助した。

知一郎は将来の学校経営を考えて、学校造林の方針を立て、大昭和と田子浦高校財団との間に公正証書よりて、健全経営策を確立させた。そして校風の制新と教育の向上を図って、昭和三十年一月朝比奈策太郎を学校法人の理事に任命してその衝に当たらせた。

こうして学校の充実を図る一方、知一郎は県立移管のため東奔西走した。そして昭和三十二年三月二十三日県議会は県立吉原工業高等学校の設立を議決した。「田子浦」を吉原と名称は変ったものの、ここに県立移管が決定したのであった。同年四月発足した県立吉原工業高等学校は昭和三十五年には校長中村満雄を中心に、職員三十名、生徒五百六十二名、機械、工業

科学、電気科に分かれて、着々地域の若い技術者を育成する堅実な学園として名を知られるようになった。

また、彼は昭和三十三年(一九五八)三月二十三日には、付近五ヵ村(吉永村、原田村、須津村、元吉原村、浮島の西三区)の英霊八百八十八柱を祀る岳南忠霊廟を落成させた。

まことに、彼の晩年は社会奉仕に終始したといってよいであろう。

以上

紙の祭典2001 全国紙業振興大会 IN FUJI 記念誌(CD−ROM)

発行 全国紙業振興大会実行委員会

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