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原料商から立上り、三十年の躬行で今日の大昭和製紙を構築した

斉藤知一郎の生涯史

大石 敬事

 

一、読みの深さと宥和力に富んだ事業家

私が、斉藤知一郎氏の知遇を受けるに至った切掛けは、製紙用パルプの営業に関連してのことであった。昭和二十五、六年当時の大昭和製紙は、余剰パルプを多分に抱えて、その市販に努力中であった社長の彼に、他のパルプ会社の営業責任者であった私が飛び込んでも、普通なら利害の背反によって呼吸が合わず、特別の知遇をうけ得る筋では、なかった筈である。

にも拘らず、彼の質素な私生活と、他人の好意を決して無駄扱いしない人柄を印象づけられて、接触の機会を増す毎に、彼に対する敬愛の念が深まる一方で、遂には、折角富士迄きたのだから、顔だけでもみに立寄ってみようかという気持ぢにさえ変ってきていた。明治の半ば、富士の裾野の一農家に生れた斉藤知一郎(以下敬称略)は、家計に苦しむ両親をたすけるため、高等小学校を中退して、農耕に従事し、なければならないような、不遇の環境に生立ちながら、その後無辺の広野に立上って、殆ど独力で苦難の環境を切開き、私が初めて彼に接した頃は、既に近代設備を誇る鈴川、吉永両工場の建設を完了し、今度は富士工場の建設にとりかかろうと意気込む当時の彼であった。

従って、彼の生涯活動の中で、最も旺盛な気運に燃えたぎるべき時代の彼であったに拘らず、実際接してみると、その挙動はいつも控え目で、寧ろ、悲観的表現などこそきかれたが、得意気な振舞は微塵も、感じられなかった。そしていつも自分の意見は差控えて、相手の話に耳を傾けるという穏かな彼の風貌が、今も尚私の目に浮ぶものがある。

その後、事業経営の明神、松下幸之助氏が部下に向って『自分と同じ意見ならきく必要はないが、変った意見ならききたい』と語ったということをきいて、それが経営者としての本当の態度ではあるまいかと、感銘を覚えたことがある。他人の如く、別段高度の学歴などを持たない知一郎が、有らゆる角度からの意見をかみ締めて他人が一度考えることを何回となく考え直して、読みを深め、冒険を決して犯すことのなかった周到な彼の判断と実行力などは、激甚な今日の競争場褌に岬吟する経営者が学び採るべき亀鑑ではないかと痛感する。

このことは、十年以上も彼の生涯研究を続けて執筆したという北川桃雄氏の『斉藤知一郎伝』や、武者小路実篤氏の『詳伝 斉藤知一郎』の中にも巧みに論評されている。そして二人の彼に対する評価は、決して諦めるとぎいうことをしない実行家であり、大抵の人が、どうにもならないと思うようなことでも、簡単に断念することなく、境遇を内から切り開いて、自分の力を発揮できるような環境造りを成し遂げて行く、言わば典型的な努力家であった。大昭和製紙の今日ある基礎を築きあげたのも、斉藤知一郎にして初めてできたことであり、他人の努力に期待をかけても、彼程の業績を産み出すことは困難であったろう、と結論づけている。

二、斉藤知一郎を育んだ環境

斉藤知一郎の生地は、富士の裾野で、旧吉原町から沼津に通ずる昔の根方街道に沿う閑寂な村であった。村の北方は愛腱山麓に当り、南方の田子の浦方面には水田展開する明眉な風光を控え、温順な気候に恵まれた、絶好の農村でもあった。しかし、この地方の水田は、以前に襲われた強い颱風雨のため、田圃へ海水が浸入して、土壊流失などの損害を起し、作柄不良の連年となった。ために父、米作は手持ちの田畑をも売払い、知一郎少年時代の家計は漸次困難を加えてきていた。

ために父の米作は、稲藁や三椏などの仲買を初め、入山瀬の富士製紙の工場や、須山の和紙業者へ原料納入などを兼業するようになった。父を助けて荷車の後押しなど手伝いながら、工場へ出入りする知一郎を目掛けて『乞食小僧』などの罵声を浴びせられる場面もあり、彼は、無念さに耐え切れないこともあったという。しかし、これが因縁となって、後年の彼を製紙事業に結びつけるようになったことも、又否定は出来まい。

その後も、苦しい家計の悩みは消えず、知一郎自身で茶仲買業を始めたこともある。だがそれとて順調には滑り出さなかった。自暴自棄となった彼は、一時道楽に身を沈める危険な時もあった程である。しかし、その間、徳川家康の『人の一生は重荷を背負うて、遠き道を行くが如し。急ぐべからず』とか、或は『精神一統、何事か成らざらん』というような聖句に励まされて、『人生とは畢竟、真面目な働きで、毎日の生活が真実である以外ない』という本来の心構えに立戻り、黙々とした毎日の活動に蘇ったと述懐している。

やがて彼の仕事は、茶の仲買いから製茶業まで拡大され、そして大正四年には富士宮の旧家、渡井辰五郎氏の五女わかよさんと結婚して身を固めて精進する処あったが、これも過剰生産の様相を回避できず、利益の激減から、転換すべき他の事業を模索していた矢先の大正九年八月、彼の製茶工場は火災を起して、丸焼けとなった。この災害による転換事業の第一歩として、彼は東京日暮里の問屋から、故紙を買込んで吉永に逢い、再生紙を委託生産し、『田子の浦』の商標をつけて、日本橋の小津商店に売り込んだが、品質不均一ということで、商売は軌道に乗らなかった。だが、これが機縁となって、倒産した下谷の製紙会社から、三椏約七千貰を買い込んで静岡に運び、三、四千円の利益を得たことが、彼にとって奮起の足掛かりともなった。

更に、大正十三年富士製紙の工場が大火災を起した時、彼は勧められて、焼けパルプを兎も角も買入れ、これを仕分けて転買し、四、四万円とも云われる当時としての巨大利益を得ることができた。彼はこの利益を、駿河銀行、加島銀行、身延鉄道、駿豆鉄道及び吉永製紙等に投資して、やり甲斐を覚えたこともあったが、二年後は不況で株式は暴落し、駿豆鉄道、吉永製紙以外は無配当に転落するような場面にも逢っている。こうした蹉鉄を乗り越えた知一郎は、『他人に頼ることなく、自身の判断と努力こそ難局から生き抜く要諦である』ことを痛感し、却って新たな勇気と希望が燃え立ったと述懐している。

武者小路実篤氏も評伝の中で、この時代の彼のことを、『一難きたるに当って勇気.が涌き新たな道を発見して進む処が、知一郎の特質であった』と述べているが、これは的を射た評価ではないかと思われる。

 

三、富士山麓に燃えたぎった製紙エネルギー

元来富士地方は、豊富な裾野の天然水にも恵玄れて、製紙事業への立地条件には恵まれた土地柄であった。加えて、第一次大戦後の好景気によって、製紙事業は代表的な利潤型産業と見られていたので、製紙会社の創立は、この地方における一つの趨勢ともなっていた。従って、このような新興会社の中には、当時の景気浮上に便乗したものも少くはなく、変動の波による浮沈も又、激しいものがあった。

斉藤知一郎が、初めて実際の製紙事業に乗り出したのも、その頃であった。その切掛けは、大正末期の物価暴落と、多額の借金で休業を余儀なくされた駿富製紙を、知友四人と共同で大正十四年に借り受け、社名を丸共製紙と変えて、従来よりの漉もの、水引原紙の抄造を行った。設備としては、六十二吋の丸網一台で、資本金十二万五千円、月当たり貸借料は千五百円であったという。

しかし、経営が軌道に乗り難く、欠損の連続であったので、一年後には他の協力者全部が手を引くに至った。知一郎は巳むを得ず、四人の株式全部を引受けて、個人経営に切替え、製品も主体を塵紙に変更して操業を続けた。

更に同年秋には、斉藤徳治、久保田春吉、佐野貞作外二名と共に、五十吋の丸網で和紙を抄造していた吉永の寿製紙の経営を引受けて、社名も昭和製紙と変更、従来よりの半紙、障子紙、仙貨紙等を主体製品として操業を.続けたが、矢張り、黒字経営には程遠い実績であった。

その上、昭和三年七月には、五人の経営協力者全部が又々、この事業から手を引くという丸共製紙同様の羽目に陥り、再度知一郎は彼等の持株全部を、引受けざるを得なくなった。

このように変転極りない、草創時代の過程から推察すると、共同事業に対する彼の協調には、不協和音も実在したのではないかとも思考される。武者小路氏の評伝にも、『鬼呼ばわりの悪口も出た』と認められているが、当時の心境について、彼は武者小路氏に次の如く語っている。

当時の不協和への対応と行動は、単に自分の利益追求一点張りからとったものではなく、事業の存続を図るためには、敢えてそうせざるを得ないものがあった。事実問題としても、当時それで得た自分の利益などは、全く皆無であった、と。

斯る混沌の情勢から立上った知一郎の製紙事業は、昭和製紙吉永工場を第一工場、丸共製紙今泉工場を第二工場として、一意大型機械の増設による生産規模の拡大と又製品の多様化を意図して進行した。

しかし、昭和五、六年当時の浜口内閣による経済緊縮時代においては、彼の経営環境も決して例外ではあり得ず、昭和製紙の如きは、倒産一歩手前の窮地まで、追い込まれたこともあった。加えて、知一郎自身が腸チフスで危篤に陥るなど、重なる試練の時代もあったが、彼一流の粘りと判断で、兎も角もこの苦境を乗切った才能は、矢張り評価に値するものであろう。

他方、当時の外部事情としては、昭和八年五月王子、富士、樺工の大手製紙三社が合併したのをモデルケースとして、寡占体制による経営合理化の必要が、叫ばれた時代であったが、当時四十五歳の彼はこの波を押し切って、鈴川の所有地二万七千坪に第三工場(現在の本杜工場)の建設に着手し、大型抄紙機四基の連続増設の外、吉永工場にも二基増設して、生産力の増強を図っている。

だが外部の一般情勢は、漸次厳しさが加わってきた。昭和十一年の二・二六事件に始まる軍部独裁体制の強化、更に中国侵略がもたらした国内平和産業への抑圧政策等により、紙の売行不振、滞貨の増大をきたし、倒産会社続出の様相を呈してきた。

斯る展望の中で、知一郎が憂慮したことは、昭和製紙のような基盤の浅い事業の安定には、現状では不充分であり、王子、富士、樺工の三社合併の教訓に則り、他の安定勢力との連結による基盤固めを必要とすることであった。この意図のもとに彼は、王子製紙、北越製紙、東京人絹及び理研等の諸会社に対しての打診を、粘り強く繰り返してみたが、結果はすべて不調に終った。

次善の策として、知一郎の考えたことは、内輪固めの方策であった。それには実弟斉藤信吉の経営する岳陽製紙、更に信吉の岳父、佐野貞作の経営する大正工業を両軸とし、外に昭和製紙の系列会社の昭和産業と駿富製紙を加えた五社の合併であった。

彼のこの構想が実現するまで、諸々の曲折はあったものの、昭和十三年九月の五社合併総会では、兎も角その承認をとりつけて、当時の資本金五百五十万円、傘下に六工場を持つ今日の、大昭和製紙株式会杜の前衛が創立された。人事面では、可成りのトラブルもあったとされるが、取締役会長斉藤知一郎、取締役社長佐野貞作、専務取締役斉藤信吉の顔触れで、発足することになった。

しかし、この合併と人事機構には、最初から不安定な要素が潜んでいた。当初からこの合併の調整役を勤めた当時の駿河銀行頭取の岡野喜太郎氏は、その経緯について、次の如く語っている。『この時代、富士地方における製紙事業経営の実態としては、能力を持つ者の多くは、皆ワンマン経営による個人企業を目指す乱立期であり、協力とか協調という経営理念は、殆ど存在しなかった。この雰囲気の中で、夫々独自の手腕力量を持つ、これ等三人の英雄の共存は、果して可能であろうかと、憂慮せざるを得なかった』と。

案の定、この合併の翌年九月には、実弟の斉藤信吉が又独立宣言と共に、今泉に富士紙業を興して訣別し、その後の昭和十七年九月には、会長斉藤知一郎を背任横領嫌疑で、内部から起訴するという奇妙な事件も勃発した。

結局、知一郎の無実が実証されて、免許とはなったものの、その間の五十日余りを静岡刑務所の未決拘置所独房に、監禁されるという惨めなハプニングもあった。

本命をかけたこの五社合併も、結局、元の木阿弥に返り、昭和十八年二月には井上源之丞、佐野貞作の要望によって、富士工場を凸版印刷に譲渡、更に戦後の二十一年には大宮工場(現在の東京製紙)を佐野貞作に、又岩松工場(後の朝日製紙)を弟の信吉に夫々分離譲渡すると共に、それに相応する資本配分をも行って、殆ど、合併前の昭和製紙の素裸に立ち戻っていた。

敗戦直後の混乱期に、再びもとの素肌に逆戻りしたことは、定めし知一郎にとって、脾肉の嘆に耐えないことであったろうと想われる。しかし、合併しなければ共倒れか、自滅の危険を学んでいた昭和十三年当時とは、打って変って、終戦後の経済事情や社会情勢は、いわゆる革新への展開が初まる時となっていたので、知一郎にとっては、何の掣肘をも受けることのない、存分のワンマン経営で、当時の紙不足に対処できる環境を迎え得たことは、寧ろ幸運であったとも見られよう。

爾来、七十三歳で彼が生涯を閉じた昭和三十六年までの十五年間に於ての大昭和製紙の伸びは、資本金二十五億円と四百五十倍を超え、その間、彼潭身の努力による工場設備の拡大に関する明細説明は省略するとして、昭和三十六年時点に於ける鈴川、吉永、吉原、富士及び白老五ヵ工場合計の生産実績を、全国総生産と対比してみると、パルプ約五十二万トンで、対全国比十二%六、洋紙約二十四万トンで、対全国比八%二四、板紙約十二万トンで、対全国比五%六となっている。

 

四、栄光に輝いた二度の行幸啓

周知のことではあるが、斉藤知一郎の多年の尽力が広く確認されるに因んで、彼の事業場は、前後二回にわたる行幸啓の栄誉に輝いた功績がある。

初回は昭和二十三年四月十日、沼津御用邸にご滞在中の貞明皇后が、二人の女官を随って、わざわざ彼の鈴川工場に来臨されたことである。今日とは異った整備の同工場を一時間半にわたって、ご視察後、『斉藤さん、増産して下さいよ』とのお言葉を残された光栄であった。次回は昭和三十二年十月二十九日、天皇、皇后両陛下が、静岡県下で催された国民体育大会へのご臨席を機に、産業奨励の御思召しで、大昭和製紙に行幸啓されたことである。

天皇陛下は、その時に、先に行啓された貞明皇后の思召しに、叉深い感銘を覚えられて、その後『母宮のゆかりも深きたくみ場に、入りてつぶさに紙つくり見る』をご詠歌された。

このことが、同年末の三十一日宮内庁から発表されたので、これに感激した知一郎は、このありがたい御製を永久に記念することを決意し、当時の入江侍従に揮毫を依頼して、これを御影石に刻み、天皇、皇后両陛下行幸啓記念碑と並んで、鈴川の本社工場表面に建立された喜びと栄光である。

 

五、『努力の道』に象徴される奉仕観

曾て私は、亡き斉藤知一郎氏の遺蹟探求の目的で、生前の彼を取巻いた周辺への散策を試みたことがある。

そして彼の生涯活動の随所に、その奉仕観実現の為に努力した跡が見出されて、密かに安堵を覚えて、帰宅したことを想起する。そして限りない生前の彼の奉仕活動の中から、二、三を拾いあげて、読者の共感を誘いたい。

現在の静岡県立吉原工業高等学校の前身は、斉藤知一郎の会社に程近い、私立田子浦工業学校であった。現在同校は、吉原市比奈北方、標高百米の俯瞰に恵まれた丘陵の上にあるが、登校通路である山腹坂道の上り口には、知一郎にとって謂れ多い少年時代の努力の跡を象徴する、『努力の道』と刻まれた石碑が立てられている。

その由来についてであるが、戦時中の昭和十八年頃、私立田子浦工校は、廃校も懸念される経営難に陥っていた。知一郎はこれを傍観するに忍びず、経営者の町田徳之助氏より一切の責任を引継いで、その存続を図ることにした。その動機について知一郎は、『若葉のように成長し、次代を担う少年達から勉学の場を取り去ることは、近傍の事業家として、堪えられることではない。また将来のための技術教育の必要性から考えても、無為傍観は許されることではないと考えたからだ』と語っている。

そして、終戦後の昭和二十一年には機械科を、翌年には中学校、更に二十三年には工業高等学校に昇格させることができたが、財政上の困窮は、なかなか解消されるに至らなかった。その事情について、『斉藤知一郎伝』の執筆者北川桃雄氏は、もともと彼自身教育事業についての専門家ではなかったし、労々彼が事業とする製紙業自体が、終戦前後の混乱期で、その立直しに全力投球を余儀なくされた時代であったので、田子浦高工の財政再建に、取組む余裕を持ち得なかったことも、大きな理由の一つであったと記述している。

実際に知一郎が、校風刷新に取組み初めたのは、製紙事業経営が漸く安定をみるに至った昭和三十年頃からであり文部省前局長、朝比奈策太郎氏を理事に迎えて、田子浦高工の振興について検討を始めてからのことであった。

その結果、更に応用化学科、電気工学科などの専門科を加設したが、教育内容一段の充実のためには、畢寛、県営に移管させることを適切とする結論となった。この県営移管達成のために、知一郎は二年以上の努力を続けて、漸く昭和三十二年三月の県議会で、採択された。だが、県営移管に伴って残された課題は、廃止となる私立田子浦校と運命を共にして、職場転換を余儀なくされる教職員の身の振り方や、廃校後の跡始末であった。

これ等の諸問題に熱心に取組んで、苦心を重ねる斉藤知一郎の姿に、深く胸を打たれたのは吉原工高の新校長、中村満雄氏であった。そして中村校長の考えたことは、新設された吉原工高の現在位置は、知一郎自身の過去の努力の跡と、決して無縁ではない。新校へ通学のための坂道は、もとは長坂と呼ばれた山道を改修して造られたものだが、知一郎は少年時代、農耕のため朝夕重荷を担いで、こめ坂道を登り下りして、今日の彼を成し遂げた、言わば知一郎努力の坂道であると。それで、中村校長は、朝夕この坂道によって通学する生徒達への生きた教材にしたいと、考えた。知一郎は中村校長の申出を理解して出資し、坂道の登り口に『努力の道』と刻まれた石碑が、建立されるいきさつとなった。そして台石には、中村校長の達筆により『この道は、斉藤知一郎氏が夢多き子供の頃、大志を抱きつつ歩いた、思い出の道である』と刻み込まれている。この吉原工高内には、更に知一郎の遺言により寄贈された『斉藤記念館』と呼ぶ完璧な建物があり、現在講堂及び体育館として、使用されている。

更に純粋な彼の奉仕行動として評価さるべきものの一つに、岳南忠霊廟の建設がある。彼自身参戦はしなかったものの、敗戦の惨禍を身に挺して感じた彼は、戦争の犠牲となった護国の英霊を祭り、遺族達の祈りの浄域となるような忠霊廟を、高燥で清浄な場所に建設したいと、かねがねの念願であった。

これに関して、吉永村会が議決した小規模な建設に対して、彼は、建設費を自分で負担する条件のもとに、着手の中止を求めた。そして比奈北方の『泉が丘』と呼ばれ、清澄な富士の霊峰が一望される景勝の地に、長い年月と多額の建設費を投じて、広範な廻廊に庇護されて浄域としての雰囲気が漂う、忠霊廟の建設を、昭和三十二年末漸く完成することができた。そして翌年三月二十三日には、近隣五ヶ村より合祈された英霊八百八十八柱の慰霊祭を行った後、寄贈式も行われている。

彼の奉仕活動としては、この外、運営に行き詰り、存続が危ぶまれた、地元の吉原病院を救済して、諸施設完備の今日迄建直した努力、又、彼の菩提寺であった玉泉寺の本堂三百三十二坪の建立や、同寺に『知恩鐘』と銘打った総高七尺四寸の鐘を寄贈し、その音によって、きく郷土の人々に、道義心を振い起して貰いたいとの念願など、枚挙に遑ない程だが、本文の最後として、今尚、私の記憶に銘記される、この土地柄に、当時としては珍しい、幼稚園寄贈に触れておきたい。

昭和二十七年春、彼が新築して、吉永村に寄贈した幼稚園は、当時としてはよく整備された施設で、千五百坪の敷地上、二百五十坪の木造瓦葺の園舎で、五月五日の子供の日の入園式には、二百二十名の入園児を迎えて、施設一切の寄贈式も行われたが、その後更に、大小二面の水泳プールも、新設寄付されている。

この幼稚園設立を思い立った動機について、彼は『戦後、この地方一帯での青少年の無軌道振りは、眼に余るものがあった。その振舞いが、頑是ない幼児達にまで与える影響が心配になり、やがて、次の世代を担う国民たるべき幼児達の為、心身の健康を守る環境造りの必要を痛感した結果である、と語っている。これ等は即ち、斉藤知一郎氏の人柄の誠実さと地道さを、端的に表現する教訓ではないかと思う。

 

五、むすび

事業家の遺した、生涯活動に対する評価は、これを観る人々の立場の相違によって諸々である。従って、実情を知らない人々には、その判断に戸惑うことも多い。だが、世間が心から礼賛しようとする事業家活動の実態としては、たとえそれが努力、奮闘等によって象徴されるものであっても、凡そ社会性とは結びつき難い利潤や、功名の追跡だけに終始するものである場合、対象から外されても、已むを得まい。その評価は矢張り、生涯活動を通じて、場合によっては部分的にせよ、行動理念の中に、所謂、貢献との関連意識がどの程度織り込まれていたかの、度合如何にかかるものではないかと、私は思う。

これは知名度などの如何には関係がなく、各個人の通常な生涯に関する場合でも、全く同然であるべきだろう。この意味で、斉藤知一郎氏の場合も、彼の生涯活動の前半、或は事業の草創期に於ける行動に批判の余地があったとしても、後半、或は晩年仁於ける彼の活動の実態とを総合して判断するとき、矢張り、彼は高く評価さるべき存在に違いなかった、と私は思う。

終戦時の昭和二十一年、全く素肌となった昭和製紙を、彼の終焉昭和三十六年までの十五年間に、今日の大昭和製紙存立の大半の基盤を構築した実績は、受容れられない理念や不純な行動で、為し遂げ得られる筈のものではない。

利害には何の絡まりをも持たなかった私が、彼と接触した十数年間、肉親同様の親愛間を抱き続けた、長い出会いを回顧する時、彼の大事業達成の秘訣は、矢張り、聡明な出合人事に因るものではないかとさえ思われる。

この理念は彼が築いた家庭環境にも、当然浸透したことであろう。最後の評言で、申訳ないが、彼の次男、斉藤滋与史氏が、第一次鈴木内閣の建設大臣に登用されたことも、決して、偶然のことではないと私は思う。

(王友クラブ会員)

 

「百万塔 第53号」 昭和57年(19823月 財団法人 紙の博物館

以上


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